「雨月シリーズ」誕生秘話

画家としてスタートした初期は風景画を中心に描いていました。ヨーロッパの風景に魅了され、ヨーロッパを中心に取材旅行に行っては大作を公募展に出品し、小品を描きためては個展を開催していました。

実は私の父も画家で、海の絵をメインテーマに描いていたのですが、初期の作品の中にすこし不思議な雰囲気の絵がありました。絵自体は人手に渡ってしまい現物はなかったのですが、父が最初に出版した画集の中に、その絵は白黒の画像として掲載されていました。

絵のタイトルは「雨月」でした。
大胆な色面構成的な抽象画のような作品で、池の水に映る月を描いたようにも見えるのですが、写実的に描かれているわけではないので、見る人によって解釈も分かれるような趣のある魅力的な絵でした。

父は若い頃、独学で日本神話を研究していたり、小説家を夢みて中国大陸を舞台にした長編小説に挑戦してみたり、演劇で御園座の舞台に立つなど、かなりの変人でした。
そんな父が、私が父の画集を見ていると、江戸時代後期に上田秋成によって書かれた『雨月物語』(うげつものがたり)について熱く語り出しました。

「いいか、上田秋成の『雨月物語』は、日本の文学史に残る最高傑作だ。そこには妖美があり、情念と怨念があり、そして愛がある。日本人の美意識を怪談というテーマに秘めて文学に昇華させた美しい結晶のようなものだ。私はこの『雨月物語』を絵にしたかった。この画集に掲載した作品は私も気に入っている。しかし、この作品を超える作品を一枚も描くことができず、ライフワークとして描き続けることを断念した。そして描くテーマを海に変更した。」と、ひとしきり語り終わると父は黙ってしまいました。

私は、父の話に興味を持っただけではなく、自分の中に芽生えていたある想いをはっきりと自覚したのです。
ヨーロッパの風景は確かにエキゾチックで魅力があり、絵のモチーフとしてはうってつけだと思うが、異邦人である私はそこに住んだわけでもなく、異国情緒を楽しみ、ヨーロッパの旧市街のロマンチックな雰囲気に酔っているだけで、体内に流れる根源的な血の繋がりなど無く、単にオシャレに描いているだけではないか? 絵を描く意味が本当にあるのか? という哲学的な問いでした。

私は父に「雨月のテーマに挑戦したい。このテーマをもらっても良いか?」と口に出していました。父は一瞬驚いたような表情を顔に浮かべましたが、次には凄く嬉しそうに、「このテーマは本当に難しい。ひとつ間違うと陳腐な幽霊画を描くことになってしまう。そんな表面的なことではないのだ。どう描くのか? 楽しみにしているよ!」と言い残して去って行きました。

それから、私は「雨月」をテーマに日本人の美意識をいかに絵にするのか? 絶えず自問自答し、表現方法を確立する為に日々格闘する毎日となりました。
そして、長きにわたりテーマとして取り組むことになった「雨月シリーズ」の作品群が誕生したのです。

ただ、父の絵の「雨月」を超えられたかは私にも分かりません。

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